t_narihara pensées

architect in KYOTO,JAPAN

匿名:
こんにちは!僕は大学で建築を学んでいるのですが、ナリヒラさんのディプロマを雑誌で拝見しまして、他にどういった作品を作っているのか気になりご連絡しました!ポートフォリオなどは公開しているのでしょうか。もししているのであれば見てみたいです!よろしくお願いします!

はじめまして。ナリハラです。この度はご連絡ありがとうございます。

現状公開しているポートフォリオは特にありませんが、https://t-narihara.tumblr.com/tagged/建築の方に作品の画像を多少公開しています。よければご参考になさってください。

ちなみにご連絡いただいたあなたのプロフィールもよければお伺いできますか?

あと、どういった媒体からここまで辿り着かれたのかも気になります。

お返事お待ちしています。

映画『ハナレイ・ベイ』における実空間への被写界深度

 鑑賞中に浮かび上がっていくいくつもの疑問を抱えながら、ハワイ・カウアイ島の美しい自然の中で息子の死に向かい合う吉田羊演じる母親の姿が、滑らかで無機質な映像によって描かれていく本作。

 作品のリアリティは時に不確かになる(もちろん原作は村上春樹による小説であるためフィクションなのだが、それを理解してなお作中の臨場感が揺らぎ続けるという不思議な体験が存在する)。非日常のカウアイと日常の東京を行き来する女が過ごす、両都市の空間的なギャップも事故のつかみ所のなさを印象付ける上、空港やスーパーマーケットにおける女の疎外感はそのブレに拍車をかけ現実の境界を曖昧にする。しかし一方で作中には「イラク」「沖縄」と言った政治的な言葉が散りばめられており、ハワイの非現実性を時に現実に引き戻す言葉として機能する。またこれはネタバレになるため読み飛ばしていただいても構わないが、鑑賞者に劇場入場時に配布される封筒があり、ここにはある写真が納められている。これが鑑賞後の現実感をゆっくりと足元から瓦解させていく。この仕掛けも実に巧妙なものだった。

 本作は場所と作品の関係についても極めて示唆的な作品である。島を鳥瞰で捉えたシークエンスが冒頭と最後の二箇所に無音で挿入されるが、そのどちらもまずは山の緑から始まり、次第に人の住む集落や砂浜の様子を捉えていく。撮影は万引き家族での瑞々しい映像が記憶に新しい近藤龍人である。日経新聞の記事にはこのように書かれている。

  ”風景を広く捉えるために撮影に近藤龍人を起用し、カウアイ島の現地で撮った”

物語が進むにつれ、土地のコンテクストが明らかになっていくが、冒頭の映像のみであればどこか赤道近くの匿名のリゾート地とする道もあるのにも関わらず、なぜハワイ、特にカウアイ島である必要があるのかというのが気になった(ちなみに撮影地はクレジット終盤を確認した限りマウイ島も含まれているようだ)。カウアイという島の持つ保護された自然に抱かれる楽園のイメージに寄りかかるということなのか、リゾート特有の浮遊感を詳細に描くのためなのか、その含意の振幅の広さによって意識はすぐに煙に巻かれてしまう。加えて小説というフィクションにおいて実名を与えられた場所へ赴き、その場を実際に映像におさめることの二重性によってさらなる混乱が生じてくる。

  ”「ハナレイ・ベイという場所が持つ目に見えない力を映したかった」”

先ほどの記事で監督はこうも述べており、ここからも監督の土地への意識をうかがう事ができる。

 また自然と人間の関係についていえば、物語の主題として息子を奪い去った自然との対峙が描かれており、その意味でこの冒頭の鳥瞰のシークエンスは物語の前触れとしてふさわしい。ただ実際には自然に対峙するというのは人間の側のおごりであり、冒頭の警官のセリフ「息子は自然に奪われたのではなく、還っていったと考えなさい」とともに、女が林の中で木を力一杯押し続ける姿の無力感は、自然はあまりに巨大であることを可視化する。

 作中にて女は息子を失った浜辺を眺めるためにその内陸部の林の中で椅子に腰掛けて過ごす。遠方や上方から椅子と女を捉える類似のカットが何度も挿入されるが、どこか描かれる椅子の様子やその位置に変化が見られる。最初折りたたみ式だった簡素なイスはその背の傾きを幾度か切り変えた後、10年の時を経てじっくりと据えることのできる四つ脚の椅子へと変化する。またその位置も女の心の動きと同化していく。最初は日陰追って移動されたかのようにみえた椅子の運動は、次第に他の登場人物との関係性を示すためにその場所を変えるようになる。女の椅子を置く定位置にテントを張った村上虹郎演じる日本人の少年との距離感を測るかのように、女は椅子を少しずつ浜辺へと向かわせる。徐々に座るという行為は取り除かれ、彼女は少年の言葉「片足の日本人サーファーって見たことあります?」を契機として浜辺へと誘い込まれていく。その後、彼女は息子の姿を写真や手形など様々な対象に投影し追ってゆく。次第に想像の中で自らの視線を息子の視線へと重ね合わせていき、遂にはラストシーンにおける彼女の海から浜辺への眼差しによって、息子を求める身体の(陸から海への)漂泊が完結し、意識が平衡へと達したことを観賞者に諭すのだ。

 また本作の特徴として独自の音像が挙げられるだろう。感情的なカットは音楽とともに歯切れよく切断され次のカットへと移る。イギー・ポップの「the passanger」が鳴り響く息子の自転車のカットは鑑賞者の感慨を遮るようにして振り切られる。逆に繊細な音遣いとして、終盤に女の心の揺らぎを心音に乗せて表現する術などがあり、鑑賞者の意識を引き込んでいく役割を果たしている。このように音によっても没入度が揺さぶられる。

 このように本作品にはリアリティ・自然の中の人間・女の身体といった、特定の対象を模索する往復運動のイメージを生産し続けており、物語の最後にスクリーンを見返す女の視線によってその焦点が一点に絞られ運動が静止するかのように見える。しかし、冒頭にも述べたが我々の感情はその静止を信じることはできず、鑑賞後にもその余震に苛まれていくことになるのだ。私は一夜明け未だにこのゆらぎを見極めることができずにいる。

2018.10.29 京都市右京区太秦の自宅にて。

成原 隆訓

<参考>

「文化往来」、『日本経済新聞』、2018年10月25日

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